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映画『祝(ほうり)の島』の監督、
纐纈あやさんにお話を伺いました。
取材・文:温野 まき 写真:黒須 一彦
纐纈あや (はなぶさ あや)さん
1974年生まれ、自由学園卒業。写真家・映画監督である本橋成一氏のもとで、映画製作、宣伝、配給に携わる。映画『ナミイと唄えば』(2006年公開)のプロデューサーを経て、山口県祝島を舞台にしたドキュメンタリー映画『祝の島』を初監督。4月から瀬戸内の各地で先行上映し6月に一般公開予定
元気をもらった島
山口県の東南、室津半島と陸路でつながる長島の先に、瀬戸内海に浮かぶ祝島(いわいしま)という小さな島がある。
纐纈あやさんが、写真家であり映画監督でもある本橋成一氏と共に、初めてこの島を訪れたのは、2003年1月だった。
「最初は、祝島に対して、閉鎖的で重いイメージを持っていたんです」
そう語るのには、わけがあった。
1982年、祝島の対岸、長島にある田ノ浦を埋め立てて、上関原子力発電所を建設する計画が中国電力から発表された。
このあたりの海は、温暖な気候と黒潮の潮流による豊かな漁場で、手つかずの自然海岸が多く残っている。スナメリが繁殖し、ハヤブサが空を舞う、稀少生物の生息地でもある。なので、原発計画が発表されて以来、祝島を含む上関町では、長年に渡って原発推進派と反対派が対立してきた。特に祝島は、当初から住民の9割が反対し、建設計画に抵抗を続けている。纐纈さんが訪れた当時の人口は約600人。そのうち65歳以上が7割を占める過疎の島での原発反対運動と聞いて、先入観を持つのも無理はない。
「ところが、定期船から降り立つと、会う人、会う人"どこから来たんだい? よく来たね"とニコニコ笑って迎えてくれるんです。見るからに元気そうで、はつらつとしたおばちゃんや、はにかんだようなおじちゃんたちの笑顔。それだけで、自分の古里に帰ってきたかのように思えてしまった」
纐纈さんが祝島を訪れたのは、本橋さんの監督作品『アレクセイと泉』を島の公民館で上映するためだった。
本橋監督は、チェルノブイリの原発事故で被災した村に通い続けて2本の映画を撮っている。当時、纐纈さんは本橋監督の下で2本目となる同作品の制作・宣伝・上映事務局の仕事に携わり、劇場公開と自主上映会のために、全国を巡回していた。
『アレクセイと泉』の舞台は、かつてベラルーシ共和国にあった小さな村だが、政府からの移住勧告によって、いまでは地図から消されてしまった。生まれ故郷を離れたくないと住み続けている55人の老人とアレクセイという青年の普段の暮らしが、唯一放射能が検出されない"奇跡の泉"を拠り所に描かれている。
「下関で大きな上映会があった際、主催者だった女性から、"祝島というところに、この映画に出てくるじいちゃん、ばあちゃんにそっくりな人たちがいる。ぜひ、島の人たちにこの映画を観せたい"と言われました。初めて祝島の原発反対運動のことを知り、絶対に行きたいと思ったんです」
祝島では、原発反対デモを一週間に一度、月曜日の夜に行っている。ちょうど、訪れたのが月曜日だったので、纐纈さんも本橋さんもそのデモに加わった。
「デモ初体験だったので、シュプレヒコールをどんなふうにあげればいいだろうって緊張していました。そしたら、夜になって、おじちゃん、おばちゃんたちが、わらわらと集まってきて、今日のテレビがどうとか、誰々がどうとか、おしゃべりしながらデモが始まった。そうやって、ぺちゃくちゃしゃべりながら、時々思い出したように、"原発反対、エイエイオー!"ってやって、村を回るんです。ある意味、衝撃的でした(笑)」
さらに、デモの後に行われた『アレクセイと泉』の上映会では...
「いままで、上映会で全国を何十カ所も回らせていただいているんですけど、そのなかでも、ダントツに面白い上映会でした。島のおじちゃん、おばちゃんたちは、映画を静かに観なきゃいけないという既成概念がないので、スクリーンに向かって、わぁーわぁー話して、ゲラゲラ笑ってる。映画の最後の方で、アレクセイのおばあさんとおじいさんの会話のシーンがあって、おばあさんが、あんたは、昔、浮気した!って、おじいさんを問いつめるんです。おじいさんは酔っぱらっていて、頭を抱えてしまうんですけど、それを見て、祝島のおばちゃんが、"男と女はどこでもいっしょやなー"って、それで会場中がどっと湧いて...そんな上映会でした。もう、島の人たちの明るさと元気さ、開けっぴろげな姿に、私は、やられてしまったんですね。原発反対運動が起きている場所で、この映画がどう観られるのか不安があったのですが、逆にものすごく元気をもらった。必ずこの島にもう一度来たいって思いました」
祝島から帰る定期船の中で、本橋監督は、纐纈さんにささやいた。
「この島を映画にすると面白いよ。きみがやったらいい」
それは、映画を自分が撮るなどと夢にも思っていなかった纐纈さんにとって、あまりにも唐突な言葉だった。
祝島の人たちが守ろうとしているもの
2006年には、沖縄で三線を弾きながら旅をする85歳の女性を主人公にした映画『ナミイと唄えば』を初めてプロデュース。そのまま、経歴を重ねるかと思いきや、纐纈さんは映像の世界から離れてしまう。
「プロデューサーといっても、自主制作ですから、助監督や制作デスクなど、一人何役もこなさなくてはいけません。映画を作る喜びはとても大きいのですが、それと同じくらい責任も重い。人の人生に踏み込んでいく、関わっていくということが怖くなってしまい、疲れきってしまったんですね」
本橋監督の事務所を辞めて、飛び込んだのは派遣のOL生活だった。
「IT系の会社で、隣りの人にもメールで連絡するんです(笑)。9時から5時できっかり終わって、あとは自分の好きな時間という生活でした。心が波立つこともなく平穏に毎日が過ぎていくんですけど、それを半年くらい続けているうちに、また、むくむくと、人と関わりたい!という強烈な欲求が芽生えていました」
そして、祝島の原発反対運動を撮影した写真集に出会う。そこに写っていたのは、初めて島を訪れた日に見た、どこかのんきなデモや、笑いに溢れた公民会での集会とは違う、島民たちの必死の姿だった。
「この写真集のなかで、祝島の人たちと久しぶりに再会したのですが、途中で、苦しくてページがめくれなくなってしまった。私が知っている元気で明るい島の人たちが、ここまで体を張って守ろうとしているものって何だろうって」
また、期を同じくして2つの映像作品を観ることになった。ひとつは、本橋監督の写真家40周年の写真展で再映された『アレクセイと泉』。もうひとつは、小川紳介監督の『満山紅柿 上山ー柿と人とのゆきかい』。
「『アレクセイと泉』は、もう何十回と観ていたのですが、改めて観たとき、人が生活する姿はなんて美しくて、面白いんだろうって、心の底から思いました。自分は、本当は人と関わりたいんだということが、このとき初めて明確になったんです。もう一つは、『満山紅柿』。山形県の名産の干し柿作りを淡々と撮っている映画なのですが、それがまた美しくて、絶妙のタイミングでカメラの前でいろんなことが起きるんです。これは偶然じゃない。おそらく、監督が村の人たちと時間を共に過ごしてきたなかで、その瞬間に立ち会うことができたのではないかと思いました。そんなふうに "時間を共有する"ことだったら、私にもできるかもしれない。この映画のエンドロールが流れる頃には、祝島へ行くことを決めていました」
共有の時間のなかで、お互いを受け入れていった
決意したのが、2008年の2月。翌月には祝島へ向かい、資金を得るために、山梨県でバイトをかけもちしつつ、毎月、島に通って準備を重ねた。そして、7月にクランクイン。
「原発への抗議行動の前提に、脈々と続いてきた島の生活がある。それをみなさんと観ることができたらと思いました。そこには私たちが忘れてしまっているものがあるに違いないという予感がありました。でもまずは、私がこんなに魅了されてしまった島の人たちが大切にしているものを自分の目で見てみたかったんです」
当初は、小型のハンディカメラで、自分で撮ろうと思っていた纐纈さんに、師でもある本橋成一さんは、「いろんな人の力を借りて作品を作りなさい」と助言。自らこの作品のプロデュースを買って出て、九州の映像プロダクションKBC映像を紹介した。
「一年半以上かかる撮影のうえに低予算なので、映像プロダクションが引き受けてくれるとは思っていませんでした。だからダメもとで、KBC映像の社長に、自分の思いをありったけ伝えたんです。そうしたら、"あなたの熱意は十分わかりました。うちの会社でも、こういう仕事を引き受けて人材を育てたいと思っていた"と言ってくださった。それで、同世代の大久保千津奈さんが抜擢されて、二人三脚で撮影を始めたんです」
1回行くと、1週間から10日間は島で過ごした。こうして、1年10ヵ月の撮影を終えたのが昨年の12月。
"時間の共有"のなかで見えてきた島の暮らし、島の人たちが守りたいと思っている普段の暮らしが、丁寧にカメラに収められていった。
「私と大久保が、島の人を受け入れていくこと、島の人たちが私たちを受け入れていくこと、私と大久保がお互いを受け入れるということ...。本当に、人と人との結びつきは、"受け入れること"なんだと。そのことに、ひたすら時間をかけていたように思えます」
島の経済は貨幣だけで回っていない
原発計画に限ったことではないが、大きな公共事業計画が持ち上がると、"お金"によって地域は分断されていく。まず、人々の拠り所となるような場所、影響力のある人にお金が積まれる。もちろん祝島も例外ではなかったが、島の人たちにとって、海は、お金では換えられないものだった。
「実際に、祝島のみなさんは、"お金なんて必要最低限あればいいんだ。お金持って死ねないだろう。お金がなくてもここでは生きていける"と言うんです。その言葉がどこから来るのかが、島の生活を見ているとすごくよくわかるんですね。島にいる間は、毎日、魚や野菜などを分けていただていたのですが、暮らしてみると、島の経済は貨幣だけで回っていない。それを支えている一番大きなものは、まず恵み豊かな海のものをいただいているということ。そして、誰かが困っているときには自分が助けて、自分が困っているときには誰かが助けてくれるという、貨幣に換算しない"労働力の交換"が当たり前に行われている。祝島は、厳しい自然環境ですが、ここには、限られた資源を分かち合うという信頼関係があります。もちろん、お金が無くてはやっていけないんだけれど、とても少なくて済む。"それ以上、何を求めよう?"って、島の人たちは言うんです。お金よりも、生きてくうえで大切なものがあるということは、彼らにとって思想ではなくて、ずっと先祖代々そうやって生きて来たという"誇り"です。それが体に沁み込んでいる。だから、補償金を10億円積まれても、海は売れないと言い続けているんです」
"分断"と"つながり"
こうして、島民の大多数が原発建設に反対してきた祝島だが、28年という年月を経て、推進派が少しずつ増えている。大きな流れに抵抗していくことは、私たちが想像するよりもはるかに過酷なことだ。
「撮影ではずっとインタビューをしていませんでした。言葉で聞き取るのは、ある意味簡単にできてしまうので、島の人たちの普段の姿を撮り続けることで、どこまで感じとれるかにこだわっていたんです。でも、やはり島の人たちの思いを言葉として残したくて、最後のロケで話を聞いて回りました。その言葉、一言ひとことがとても重くて、私たちも涙をこぼしながら話を聞きました。原発が来たことによって、家族のように暮らしていた人たちが反対派、推進派に二分されてしまう。その苦しみと、心の傷は、私には計り知ることができない大きなものだと感じました。」
纐纈さんが最初に訪れた7年前と比べても、ますます高齢化は進み、島の人口は500人にまで減少した。
「若い労働力もなく、原発のことは刻一刻と近づいていて、埋め立ても始まってしまう。何をとっても、どの要素をとっても厳しい状況です。その現状を知れば知るほど、多額の漁業補償金を拒否し続けて、原発建設に反対している島の人たちの凄さを感じます。当たり前のことですが、島の人たちは原発に反対するために生きているわけじゃなくて、彼らがずっと昔から続けてきた営みがあって、それを本当に大切に育んでいる。自分たちの"いま"のことだけを考えるのではなく、祖先が遺したものを未来にも遺したいと思っている。祝島は、人と人、人と海、海と生きもの、そして過去、現在、未来という時間...すべてがつながりを持っていることを思い出せる島なのではないかと思います」
間もなく完成を迎える『祝(ほうり)の島』は、多くの人が想像するような原発反対の映画にはならないだろう。かと言って、失われてゆくものの記録とも違うような気がする。
「最初に祝島を訪れたときに、心が震えたもの、それは理屈じゃなく、説明がつかないものでした。私にとっての希望は、あの祝島の人たちの姿。日々いろいろなことがあるけれど、いまこの瞬間、同じ時間に、島の人たちがいつもと変わらず暮らしているっていうことが大きな支えになっています。私には祝島の人たちが日本の宝のように思えるんです。その姿をぜひ多くの人に観て欲しい。その一心です。島の人たちの暮らしや、大切にしているものが、これから私たちが進んでいくうえでのヒントになるんじゃないかって思っています」
祝島――。日本地図に名前も載っていないような小さな島。そこで、いまこの瞬間にも営まれているのは、"未来への希望"かもしれない。私たちは幸運にも、もうすぐそれを観ることができる。
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