「どうぞ食べてみてください」
そう言って寺久チャンドラさんは、黒っぽい蜜のかかったヨーグルトを差し出してくれた。早速口にしてみると、黒蜜によく似た風味が広がり、それでいて後味はすっきり。この蜜の正体は、キトルシロップ。熱帯雨林に自生し、葉が孔雀の尾を広げたような形をしたキトルヤシ(孔雀椰子)の花房から採れる花蜜だ。スリランカの伝統的な甘味料として、現在も料理やヨーグルト、アイスクリーム、紅茶などに幅広く用いられている。
「キトルシロップは、医者が糖尿病患者に勧める甘味料として、アーユルヴェーダにも使われているんですよ」
取材・文:加藤 聡 撮影:黒須 一彦
寺久チャンドラ (テラク チャンドラ)さん
1966年スリランカ生まれ。高校卒業後の90年に来日。足利工業大学で機械工学を学び96年卒業。大学では風力発電などを研究、足利市の公園には自作の「チャンドラ風車」が展示されている。2年の会社勤務を経た後、紅茶やスパイスの貿易会社・樹李亜インターナショナルを設立。現在は、キトルシロップをメインに輸入・販売を行っている。
自然の恵み、キトルシロップ
それを裏付けるのが、豊富に含まれているビタミンB群のイノシトール。肝臓に溜まった脂肪やコレステロールを排除する作用や、糖尿病による神経障害を発症している人に対して、神経の機能を改善する効果が認められている。しかも、100gあたりわずか275kcalと、砂糖やハチミツなどと比べても低カロリー。農薬はもちろん、化学肥料も一切使っていない。
このヘルシーでおいしいキトルシロップの製造を行うのは、スリランカの企業「Ceylon Kitul Institute(セイロンキトルインスティチュート、以下CKI)」。輸入販売元として日本での販売を手がけているのが、有限会社樹李亜インターナショナルだ。チャンドラさんはこの2つの会社の代表を務めている。
適正技術をコンセプトとしたチャンドラ風車
1990年、スリランカの高校を卒業したチャンドラさんは、在日スリランカ大使館の紅茶局に勤める叔父を頼って来日。1年間、日本語を学んだ後、足利工業大学工学部に入学する。
「風力や太陽光など、自然エネルギー利用研究の専門家である牛山泉先生がいらっしゃったことが、足利工大を選んだポイントでした。2年次には、ありがたいことに先生から直接声を掛けていただき、研究室に入室することになりました」
牛山研究室では主にソーラーカーや風力発電に関する研究を行った。なかでも、最も苦労したのが卒業制作だったという。
「研究室のテーマの一つが、途上国用の適正技術の開発です。自然エネルギー利用機器を途上国で使用する場合、機器を維持するためのメンテナンスができずに、壊れたまま放置されることが少なくありません。そこで重要となるのが、低コスト、現地での部品調達・制作、保守可能な簡単設計というコンセプト。私が考えたのは、パイプと2個のベアリング、あとは布があれば作ることのできる小型揚水風車でした」
たったこれだけのパーツで風車ができるというだけでも驚きだが、チャンドラさんはこれに加え、当時では珍しい垂直軸(縦型)で回転する風車にチャレンジする。
「始めてはみたもののすごく大変で......。当初、セイルウイング(羽根)は3枚で設計し、完成間近という所まで進んでいたのですが、先生からの突然のアドバイスで、2~6枚での羽根のデータも取ることになってしまって(苦笑)。悪戦苦闘の末、導き出したのが4枚という羽根の数でした」
完成した風車は「チャンドラ風車」と名付けられ、現在、足利工業大学総合研究センター内の「風と光の広場」に展示されるとともに、南米・ペルーではすでに実用化されている。
「チャンドラ風車は強い風が吹くと、セイルウイングをつないであるロープが切れて回転が止まるため、故障を未然に防いでくれます。水の汲み上げを目的としている風車なので、弱い風で十分なのです。ゆっくりとやさしく回るため、騒音の心配もありません。もちろん、専門技術や知識に関係なく、誰もが修理できるものになっています」
学生でありながらこれほどの卒業研究を行ったチャンドラさん。そのまま研究者としての道へと進むのかと思いきや、卒業後は2年間の会社勤務を経て、慣れ親しんだ栃木の地で樹李亜インターナショナルを立ち上げた。セイロン紅茶やスパイス、そしてキトルシロップの輸入・販売を中心に、現在まで順調に業績を伸ばしている。
フェアトレードによる復興支援
2004年12月26日、インドネシアのスマトラ島沖でマグニチュード9.0の地震が発生し、大規模な津波がスリランカを襲った。母国の惨事に、チャンドラさんはいち早く動き出す。多くの支援者の協力もあり、2日後には食糧や医療品、浄水器などの緊急物資を被災地へと輸送。さらには自身も現地に乗り込み、スリランカ厚生省の職員とともに救援活動を行った。その後もチャンドラさんは、国からの援助が届かず屋外で勉強する子どもたちに対して、学校建設をサポートするなど、社会貢献活動を展開。こうした活動を行うなかで、スリランカの人々が適正な収入を得るための産業を育てる必要があると強く感じたという。注目したのは、チャンドラさん自身が昔から食べ慣れ親しんできたキトルシロップだった。
「スリランカでは、昔ながらの製法で作られた100%ピュアなキトルシロップを探すのが難しい状態でした。なぜなら、シロップに砂糖や水飴など他の甘味料を混ぜてしまっていたのです。キトルシロップには酵母が入っていて、ビンに詰めるとガスが発生して爆発してしまう。そのまま置いておくだけでもお酒になってしまうほど、とにかく日持ちしないんです。生産農家は、いろいろな甘味料を入れることによって酵母の動きを止めて、賞味期限を長くしているわけです」
しかし、子どもの頃に食べたキトルシロップの味がどうしても忘れられないチャンドラさんは、研究を重ね、混ぜものなしでも発酵を止める独自の技術を発見。ついに100%ピュアのキトルシロップの製品化に成功する。さらには、製法までも昔ながらのやり方にこだわった。
「CKIのキトルシロップは、蜜の採取から精製にいたるまで、すべてにおいて手作りです。男性は10m以上の高さにもなるキトルヤシの木によじ登り、花の蕾にナイフで切れ込みを入れ、こぼれ出た蜜を採取します。この作業は1本の木につき1日2回まで。取った蜜は、女性が16時間もかけて薪で煮詰めてゆきます。1本のキトルシロップを完成させるには、キトルヤシ6本分の花蜜が必要となるのです」
このように、100%ピュアのキトルシロップを作るには、手間も時間もかかる。他の甘味料を混ぜたほうが、保存が利くし、かさ増しもできる。農家は楽に作ることのできる他社との契約を選んでしまわないのだろうか?
「私たちと契約する農家には、少ない生産量でも正当な収入を得られるように、他社の約5倍の価格で買い取っています。そして、常に100%ピュアで高品質な製品を追求するため、混ぜものを加えるなどの不正を行った場合、その農家とは二度と契約することはありません。その他、葬式や結婚式の時には寄付を贈りますし、お金が足りなくなった場合は融資も行います。他にも、高い品質のシロップを出荷し続けている農家にはインセンティブとして、3ヵ月に一度ボーナスを支給するなど、頑張れば頑張った分だけ評価する仕組みを導入しています」
生産者の生活向上を目的とするフェアトレード商品のなかには、通常の商品に比べて、品質面で劣るものも少なくない。高い品質要求に契約農家が応え、その頑張りをしっかりと評価するCKIの仕組みは、本当の意味でのフェアトレードが確立しているといえるだろう。現在、34の家族がこの仕事で生計を立てている。販売量が拡大すれば、契約農家の数を増やすことも可能だとチャンドラさんは話す。だが生産が増えても、自然に負荷をかけるような、無理な採取は行わない。キトルシロップは、キトルの森を守り、育んできた先人たちからの贈り物なのだ。
母国、そして途上国の未来のために
今年1月、チャンドラさんのもとに1通の手紙が届く。差出人はスリランカの首相。その内容とは、地雷による被害者や高齢者など、足が不自由になったスリランカの人々に対して、日本で不要となった車イスを寄付してほしいというものだった。
スリランカでは、シンハラ人を中心とする政府軍と、タミル人による反政府武装勢力「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」による内戦が、25年以上にわたり繰り広げられてきた。そして昨年5月、ついにその内戦が終結。スリランカ政府は、内戦で破壊された住居やインフラの復旧・復興を目指しているが、長期にわたった戦いの傷跡はそう簡単には消えそうにない。こうした状況に、チャンドラさんは人々の農業復帰や雇用創出のサポートを行うことを決めた。ちなみにこのプロジェクトは、栃木県佐野市の国際NGO「イオルインターナショナル」との協働によって展開していく。
「車イス支援と引き換えに、政府からは水牛を安く提供してもらうことを約束しました。現在、考えているのが水牛のレンタル事業。早朝、水牛を農家に貸し出し、夕方に我々の小屋に戻してもらう。昼間はそれぞれの農家でエサやりなどの世話をしてもらい、そこで搾ったミルクを我々が買い取るという仕組みです」
過剰な援助は途上国のためにはならないと言われるが、水牛がスリランカの人々の自立を促すきっかけとなれば、効果的で適切な援助の形となるはずだ。水牛のミルクからは「ミーキリ」と呼ばれる、濃厚なヨーグルトを作ることができる。将来的には、栄養価が高く、キトルシロップとの相性もピッタリというミーキリの特徴を生かし、低所得層向けの栄養改善食としての販売や、シロップと併せての海外展開なども検討しているという。
もう一ついいニュースがある。これまでのチャンドラ風車は弱い風でも回るが、高速回転にはならないため発電には向かなかった。だが、低速回転でも十分に発電可能なモーターが、まもなく製品化されるのだという。今後、発電可能なチャンドラ風車が実現すれば、スリランカをはじめ、世界の無電化地域に暮らす人々に光を届けることも夢ではない。
「これまでの人生、ただ自分のやりたいことをやってきただけ。今後もそれは変わりません。でも失敗したことのほうが断然多いんですよね」と笑いながら語るチャンドラさん。キラキラと輝く目の奥には、新たな情熱の灯が見えたような気がした。