エコ生活にはコットン布団がよく似合う  第9回、真の文明を求めて

だから言ったじゃないか!

 

 「だから言ったじゃないか」とはこのことです。前回の本稿で、テレビコマーシャルが原子力発電まで「地球にやさしい」と言い出したことに呆れて、これからはうちで作っているコットン布団には、地球にやさしいを使わないことにしたと書きました。あれを書いたのは2月のことです。まさに「だから言ったじゃないか」を3.11は実証してくれました。何度も放射能の危険が警告されていたのに「絶対事故は起きない」と言い張った結果が、「言わんこっちゃない」ことになりました。

やさしさ比べで布団を選ぶ(2011年3月1日)

 

 3.11の大災害からもう9カ月余が過ぎました。この9ヶ月間は皆さんと同じように何も手につかないで、ハラハラドキドキのまま時が過ぎてしまいました。この連載もすっかり間が空いてしまいました。

この大災害を引き起こした津波映像の恐ろしさと、被害の悲惨さに心が痛み、打ちひしがれている間にも原発の爆発で飛び散った放射能は千葉県の我が町にも降りかかってきたではありませんか。まして原発に近い福島の皆さんにとっては、身に降りかかる放射能の恐怖ばかりでなく、避難中のご苦労からこれからの生活設計まで、そのご心労はいかばかりかと想像するだけでも胸が痛みます。津波は天災ですが原発は人災です。だから言ったじゃないか原発は危ないって! 

 

明治の鉱毒事件を思う

 

 放射能汚染が広がり、原発付近の町の人々の避難が始まった時、ハッと思い出したのは今からおよそ120年前、明治年間に渡良瀬川流域で起きた足尾銅山鉱毒事件です。足尾銅山の精錬所から流れ出た鉱毒により、渡良瀬川流沿一帯の栃木、群馬、埼玉、茨城4県の農業地帯の作物に被害が広がりました。しかし農民たちの抗議行動にもかかわらず、銅山は操業を止めることなく鉱毒を流し続けたのです。

 

 被害地域一帯の農民の窮状を見かねて立ち上がったのは、時の衆議院議員、田中正造です。正造は議員として国会で鉱害農地の被害状況を訴えるとともに、銅山廃坑と農民救済を何度も政府に迫りました。しかし産業振興を国策としていた政府はいつまでも有効な対策をとることをしませんでした。

 

 正造は最後の手段として議員を辞職し、明治天皇の行幸に合わせ決死の直訴をはかりました。この直訴は護衛に阻まれて成りませんでしたが、この事件が当時の新聞で大きく伝えられたことで次第に世論が高まり、時を経て渡良瀬川の氾濫防止のために作られた遊水地が現在の谷中湖です。渡良瀬遊水池とも言われています。しかし鉱毒を氾濫させないための河川改修によって湖底となり、立ち退きを迫られたのが谷中村の村民でした。正造は最後まで村民と行動を共にして生涯を閉じました。

 

 足尾の鉱毒は100余年後の今日でもまだ作物に痕跡を残しているといわれます。しかしそれを言うと価格が下がるので農家の人は黙っているのだそうです。福島の原発放射能はまだ収束していません。福島から避難されている方々を難民と言うのは辛いのですが、やがて生活再建には程遠いお金と引き換えに関心が薄れてしまうのではないかと心配でなりません。それは棄民に通じることです。福島の人たちが生まれ故郷に戻れるのは何時になることでしょうか。

 

真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし

 

 100余年前、足尾の鉱毒事件に対して田中正造が語ったこの言葉が今日に蘇っています。

 去る10月1日、栃木県佐野市で田中正造没後100年の記念講演会が催されました。正造が100余年前に「デンキ開けて世見暗夜となれり」と警鐘していたことを知り、その先見性に感嘆したところです。

 

 明治年間に起きた足尾鉱毒事件の真相を知るほど、あらためて現代の福島原発事故とあまりの同一性に驚いています。まさに福島の原発難民の姿は鉱毒に汚染された流域一帯の農民と、谷中湖造成で棄民された谷中村村民の悲劇そのものの様相を呈してきました。谷中村の何千倍の規模において正造の警告は現実になりつつあります。

 

 この原発災害で山川草木、そして海も汚され、人々の暮らしは日々破られています。持続可能社会への転換が急がれる中で起きたこの人災は、近代工業化文明が「真の文明」にあらざることをはっきり証明しています。3.11人災の悲劇が持続可能な新たな文明への転換を促すことに繋がることを願ってやみません。

 

 3.11からの心の整理にはベストセラーなった「慈悲の怒り」上田紀行(朝日新聞出版)がありますが、さらに一歩踏み込んで私たちが今何をなすべきかを問いかけているのが、「真の文明は人を殺さず」小松裕(小学館)です。前書が天災の悲しみと人災の怒りを仏教の慈悲の心を通して語っているのに対して、本書は国会議員の身を捨て、被害農民救済に立ち上がった正造の足跡を丁寧に辿り、明治の鉱毒事件と今回の原発事故を比べながら、正造の言う真の文明への道を探ろうとしています。

 

 著者は「どうしてもっと早く田中正造の思想をたくさんの人々に伝える努力をしなかったのだろうか(中略)正造の思想には近代文明そのものに対する痛烈な批判と、それを克服していく道筋に関するヒントが存在している」と語っています。

 

 平成の人々に降りかかるこの苦難を「先生、どうしたらいいのでしょうか?」と正造に問いかけたら、「それはお前たちがしでかしたことではないか」と言われそうですね。

 

わたを植えて真の文明への夢を見る

 

 近代工業化文明が人々を豊かにする文明でなかったことがわかって、いよいよコットンの出番です。

 千葉市にある週末ファーマーズクラブ農園の和棉畑では、12月中旬の今でもコットンボールがまだ弾けています。和棉の栽培もかれこれ10年近く続けていますが、それは衣料品の原料として人間の暮らしと切っても切れない関係にあるのが「わた」であり、わたにまつわる技能や伝統が私たちの文化だからです。わたと文明は切り離せないものだと思うからです。

 

 コットン原綿は輸入品との大幅な価格差によって、国内栽培はほとんど絶滅し、自給率は0%になっています。しかし日本にも古来から伝わる和わたがあったのです。前にお話ししましたが、鴨川和棉農園の田畑健さんの和綿の種を守ろうという呼びかけにこたえて、全国各地で、それぞれの地域に適した和綿種の栽培が復活し始めてきました。それはわたを通して、真の文明の炎を絶やしてはならないという皆さんの思いがつながってきたことでもあります。

 

 いま、田んぼや畑はたくさん遊んでいるのに食料自給率は半分にも至っていません。山には杉の森がたくさんあるのに大部分の木材は輸入されています。このようにコットンだけでなく、生活の基盤である衣食住の大部分を海外に頼っていることも忘れてはならないと思います。

 

 私は先の大戦の後の食糧難のことを覚えていますから、このように衣食住を他国に頼って暮らしていることが不安でなりません。いくらお金を積み上げても食べ物を売ってもらえない時代がそのうち必ず来ることが目に見えるようにわかります。産業優先の経済社会のしわ寄せがこのように暮らしの大元である衣食住のところで起きていることに早く気付いてほしいと思います。

 

しあわせのコットンボールプロジェクト

 

 それでは自分は何をなすべきかと考えた結論が和棉の栽培です。自分の関わりの中で自信を持って出来る唯一のことがこれでした。最早絶滅寸前になっていた和わたを植えることがわた屋の原点還りになり、新たな始まりにもなると考えたのです。

 

 ちょうど栃木県藤岡町の「しあわせのコットンボール」プロジェクトが始まった時でした。私どもも同業の寝具店の仲間たちと東京江東区の木場公園で2004年春「江東プロジェクト」としてコットン栽培を開始しました。その年秋にはコットンボールの収穫に合わせて「蘇るわたの文化」―本当の豊かさを求めて―を開催しました。わたの栽培は、昨年より千葉市の週末ファーマーズクラブ和綿畑と2ヵ所で続けています。

 

 わた屋がわたを植えてみると、思いもよらない広がりの世界がみえてきました。何よりも同じ道を行く多くの仲間たちと出会うことができました。そのわた製品のコットン布団がエコロジーな暮らしを支える道に通じていることに確信を持てるようになりました。そしてもう一つは、グローバルな競争社会の中で町の商店の生き残る道を見付けることにもなりました。

 

 栃木県のしあわせのコットンボールプロジェクトはその後大きく活動を広げ、収穫した和棉で「和綿Tシャツ」を完成しました。純日本産のこのTシャツの一部はYMOのサイン入りTシャツでオークションに懸けられ話題にもなりました。また現在は「渡良瀬エコビレッジ」と改称して幅広い活動を続けています。

 

 真の文明などと言うのはおこがましいのですが、コットンを愛するみなさんの目指しているところがだんだんと見えてきたように感じてきたところです。(つづく)

 

■お知らせ■

第2回「ふとん作りワークショップ」参加者募集!

開催日:2012年2月4日(土)~5(日)(1泊2日)

会 場:「自然の宿くすのき」南房総市和田町

昔の主婦は家族の布団作りを楽しみにしていました。そんな暮らしを思い起こしながら本格的な座布団と敷布団を作り上げるワークショップです。出来上がった布団はお持ち帰りいただけます。ご参加をお待ちいたします。

詳しくは「楽しいふとん作り」の「ワークショップ」ページをご覧ください。お問い合わせと申し込みは親松寝具店へ。

 

 

PROFILE

親松 徳二(おやまつ とくじ)

1936年東京生まれ、親松寝具店3代目、1998年エコふとんショップに転換、自然素材寝具の制作、1999年同業者とふとんリサイクル推進協議会設立、布団リサイクルを発信

2000年インターネットショップecofutonオープン

2001年オーガニックコットンふとん、和綿「弓ヶ浜」布団など発売

2008年2月店舗閉店、現在ネットショップで営業中

 

http://www.ecofuton.com/

 

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